歪曲骨家。

創作小説置き場です。

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ひだまりの部屋で 1/3

■□■□■□■□■□
朝起きて顔を洗い、朝食を食べる前にふたつばかり、する事がある。寝ている間に随分と癖のついた髪を申し訳程度に直してから、玄関へと向かう。
この部屋は元々とある会社の夫婦寮として貸し出されているから、一人暮らしには少し広い。私がなぜ勤めてもいない会社の夫婦寮に住み着いているかというと、もったいぶった割には大した理由ではないが、一言で言えば家賃が安かったからだ。二言目を追加するとすれば、私が、少々、結構、いやかなり、お節介だったからといったところか。安い家賃で住める代わりに、共有ポストに届いた郵便物の仕分け、庭の手入れ、エントランスの掃除、宅配物の預かり、ゴミ出し、などなど謂わばハウスキーパーの仕事をこなす訳だ。仕事が在宅ワークだったのもあり、この部屋を決めるのにそう長い時間はかからなかった。もっとも、新たに夫婦が引っ越してきた場合は私はお役御免、ハウスキーパーは通いで雇う事になる。そうなった時のためにいくつか物件を見て回ってはいるが、今のところピンと来るものはない。
玄関を出て鍵をかけ、突き当たりの階段を降りる。降りきったところにあるのは共有ポスト、そして少し道路側に出るとゴミステーションだ。私はゴミステーションへと歩み寄り、今日回収の対象でないゴミが入っていないか確認する。この作業のおかげで在宅ワークの私も曜日感覚を保ち続ける事ができる。ゴミの確認が終わったら共有ポストの中身を引っ張り出す。最初は階ごとに分けて、その後階段から近い順に並べていく。
並べているうちに違和感を覚えた。向かいの建物の郵便物が混じっているのだ。宛名は『茅田 真莉』。その淡い黄色の封筒をそっと山からよけて、仕分け作業を続ける。仕分けが終わると、各部屋のポストに郵便物を届け、最後に残った淡い黄色の封筒を持って自室に戻る。ほどよく小腹がすいてきたところで朝食の時間だ。
封筒を食卓に置き、本日のメイン、目玉焼きを作る。ついでに醤油がきれていたのでボトルから小瓶に移す。白飯と冷蔵庫から出したヨーグルトを添えて、本日のブレックファーストの完成。目玉焼きには醤油派な私はいつも通りに目玉焼きに醤油をかけようとし、小瓶に蓋がはまっていない事に気づき、そこからの映像はスローモーションでお送りされた。
我先にとこぼれ落ちる醤油、そしてそれらが滝のように目玉焼きに降りかかり、跳ね返り、小瓶を傾けている手は凝り固まったように動かず、際限なく茶色の地図は広がり、皿をも越え、ついにテーブルへと達した時に、一気に現実の時間に引き戻される。
テーブルを侵食した先にあった、その、
「あ。」
「嘘、やっちゃった?」
「どうしよう……って、謝るしかないよね。」
「んー……、謝るしか、そうだよね、ないよねぇまったく。」
「あー、今日一番の悲劇だ。朝から悲劇だ。認めるしかない。」
茶色く汚れた封筒を見て、ため息をつき、そしてなんとなく笑った。

■□■□■□■□■□
茅田さんは私の住む寮の道路を挟んで向かい側のマンションに住んでいるようだ。番地がひとつしか違わないが、そもそも建物の名前がまったく違うため、郵便物や宅配物が間違って届く事はめったにない。そう思って封筒を見直してみると、やはり建物の名前が書かれていなかった。ちゃんとしてよね、と呟きながら封筒を裏返してみるも、差出人の名前もなかった。この手紙、わざわざ届けなくてもいいんじゃないだろうか。一瞬だけそんな考えが頭をよぎるが、どうせ暇なんだし、と結局は届ける事にした。
こっちのマンションはさすがに共有ポストではなく集合ポストのようで、エントランスに備え付けられている。普通であればこのポストに入れて帰れば良いのだが、醤油の染みがついたものをそのままポストに投函する訳にもいかない。ポストで茅田さんの部屋番号を確認すると、偶然にも私の部屋と同じだった。
ポストの奥にあるエレベーターに乗り、3のボタンを押す。扉が開いて、長い廊下が現れる。出勤時間には少し遅いからか、マンション全体がひっそりと静まり返っている。もしかしたら、茅田さんももう家にいないかもしれない。そしたらまた出直さないと。あんまり遅くなるといけないな、と思いつつエレベーターを降りる。部屋の並びが違うため一瞬迷ったが、なんとか308の部屋までたどり着いた。表札には『チダマリ』とある。血だまり? いやそんな物騒な。封筒の宛名を見る。『茅田 真莉』。
「あ、これチダって読むんだ。」
「チダさんちのマリさんか、それでチダマリさんか。」
「いやー、びっくり。ちょっと危ないワークショップかなんかかと思ったよ。」
「また独り言が。この癖だけはいつまで経っても治らないなぁ。今の私は誰がどう見ても怪しい人だな。」
ひとまずチャイムを鳴らしてみる。リンローンと電子音がなり、何かバタバタしているようだ。家主は在宅らしい。バタバタがドドドドになった頃、受話器を取る音がする。
「はっ、あの? はい、御用ですか? 何か?」
「いえあの、お宅宛の郵便物を預かったんですけども、ちょっとやんごとなき事情がありまして、開けてもらっても?」
「あっ、すみません! 今開けます。」
ふたたびバタバタドドドドが始まり、玄関の鍵を開ける音がした。そっと扉が開き、私の顔を見て、チェーンを外した。一瞬驚いたような顔もした。外見で怪しくないと判断されて嬉しいと感じるべきか、声で怪しいと思われていたことを嘆くべきか。昔から声が低かった私は、合唱なんかは勝手にテノールを歌っていた。電話だとさらに低く聞こえるらしく、父と間違えられ「庵ちゃんいますか?」「私だよ。」はもはや日常だった。
「あのえっと、それで、郵便って……?」
「ああ、これなんですけどね、先に謝っておきます、醤油こぼしてすみませんでした。」
「あ、いえ、いいんですよ。こんなのは。」
「そうなんですか? 本当ですか?」
「ええ、本当、ですよ。」
「なら良いんですけども。間違ってうちに届いでたので。」
「いえ、わざわざ届けていただいて、その、ありがとうございました。」
「いえいえ。では、私はこの辺で。」
「お気をつけて、くださいね。」
「はい、それでは。」
私は会釈をしてから茅田さんの部屋をあとにした。彼女は私がエレベーターに乗るまで、ずっとこちらを見ていた。

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「顔も言動も可愛い人だったなぁ。」
「私の声が怖くて怯えていたのかもしれないけど。」
「仕事柄あまり外に出ないせいか、人との関わりが希薄だったからな。」
「もっと外に出たほうが良いのかもなぁ。あ、また独り言が。気を付けよ。」
寮に戻った私は庭の草むしりをして、エントランスを掃除し、部屋に戻った。少し空気が悪かったのでリビングの窓を開け放つ。風を通すために反対側の道路に面した窓も開けると、どうしてか茅田さんと目があった。お互いに窓を開けた姿勢のまましばし固まったあと、どちらともなく会釈した。そして同時に窓から離れた。今まで見たこともなかった人なのに、ちょっと会話しただけで案外印象に残っているものだ。これまでにも何回か茅田さん宛の手紙は紛れ込んでいたが、いつも集合ポストに投函するだけだったから彼女の顔を見たのは今日が初めてだ。
それにしても、と冷めきった目玉焼きを食べながら思う。しょっぱい。一応拭いたテーブルもなんだか醤油くさい。Tシャツにも茶色い斑点がついてしまったし、と思った瞬間戦慄した。
「私、着替えなかったね。」
「醤油の染みついたTシャツのままだったね。」
「『醤油の人』とかって呼ばれてたらどうしよう。別にいいけど。」
「美人の前ではどんなに凡人が着飾った所で無駄。むしろ急いで届けに来たって誠意が伝わったんじゃない。」
うむ、と頷いてふたたび目玉焼きに箸をのばす。そのしょっぱさが少しだけ愛おしく思えた。

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「さーて仕事するか。」
「醤油こぼれてるけどもう今日はこれ着てよう。」
「よく考えたら草むしりもこの格好でしてたし、もう何も怖くない。」
「新作の納品迫ってるけど、久しぶりに人と喋ったからアイデア湧き出てくる。」
作業机に向き合った私は、とりあえず思いついたアイデアを紙に書き留める。書き出されたアイデアを眺めて別の紙にデザインしてみる。ついでに色でも塗ってみる。勢いで油粘土で形だけ取ってみる。
「なかなか悪くない出来だ。」
「でもこれ、売っちゃダメだな。」
「やり直しやり直し、これは今度趣味で作ろう。」
また別の紙を取ってきてデザインし始める。今度は売ってもいいのが出来そうだ。今回の作品は有名なイラストレーターさんとコラボするそうで、普段より気合を入れて作る。そうしてしばらく紙と格闘して、やっと納得のいくものができる。そこから形を取ってみて、ボツになるか合格するかが決まる。最終選考に残った5個は実際に本番の材料で作ってさらに選考を重ねて、気に入ったものだけを納品する。完全に自分の趣味だけにしてしまうと売れないから、異なった要素も組み合わせながら多種多様な作品を作らねばならない。それなりに苦労もあるが、新しい発見もあり、その意味ではいい勉強になっている。今日は気分が乗っていたせいかいつもより数段速く仕上げまでたどり着けた。
「思ったより速く出来たな。」
「せっかくだからまだ何か作りたいな。」
「さっきの、仕上げちゃおうかな。気に入ってるし。」
油粘土で形を取ってあったのを持ってきて、それを見ながら赤く着色した樹脂粘土を練り上げていく。大まかに形にし、バランスを見つつヘラで整えていく。目の部分には黒の合成石を埋め込む。あとは乾かすだけだ。
「こんにちは、真っ赤な兎さん。」

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最近勢いを増して混じる様になってきた茅田さん宛の手紙を、今度は醤油で汚さない様に棚の上に置く。目玉焼きを作る。醤油をかける。食べる。
「この茅田さん宛の手紙って、誰が送ってるんだろ。」
「ラブレターか何かだったりするのかな。」
「いや、確かめたりはしないけど。」
「しない、しないかもしれない。」
「ウッ、手が勝手に。」
見るなと言われたら見たくなる。それが人間だ。茅田さんは私のところに手紙が来てるのを知らないのだし、ノリで貼り直せば何とかなるはずだ。何処からか湧き出る自信だけを頼りに、封筒のノリをそっと剥がす。貼り方が甘かったようで案外アッサリと開いた。中には封筒と同じ淡い黄色の便箋が2枚、折りたたまれて入っている。便箋を静かに開くと、紙面は几帳面な字で埋まっていた。
『突然、私のような者がお手紙を差し上げる無礼をお許しください。』
1行目からの多大なる謙遜にたじろぐ。ラブレターっぽくはない。さらに読み進める。
『本当のことを言いますと、私はまだ貴方様のお名前も存じ上げておりません故、直接お手紙を差し上げることができず、このような回りくどい方法になってしまいましたことを重ねてお詫び申し上げます。
つきましては先日お見えになられた時のご様子から誠に勝手ながら想像しますと、貴方様のご職業は在宅のお仕事なのではないでしょうか。こうしてお誘いするのも大変おこがましいのですが、どうかお暇なときにでもまた此方に立ち寄っていただければと思います。先日は何もおもてなしできませんでしたので、お気を悪くされたとも思われますが、どうかお見限りくださいませんよう、お願い致します。』
1枚目の便箋はこれだけで埋まっていた。2枚目の便箋に持ち替える。
『また貴方様にお会いできることを強く願っております。』
2枚目の便箋には真ん中にこう書いてあるだけだった。便箋を元のように折りたたんで封筒に戻す。ノリを引っ張り出してきて封筒のノリしろに薄く塗る。シワにならないように気をつけながらぴったりと貼り付けた。
「ラブレター……だったのか?」
「やたらと敬語の多い手紙ではあったな。」
「こりゃあ、お返事書くのも大変そうだなぁ……。」
「何にせよ、差出人は宛先をきちんと最後まで書くべきだな。」
ノリの乾いた封筒を再び棚に置いて、朝食を再開する。今日の目玉焼きは醤油と、少し不思議な味がした。

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もうほとんど毎日、茅田さん宛の手紙が届くようになった。その度に道路を横断してポストへ投函する。そろそろ苦情を言った方がいいのだろうか。こういう場合は何処に苦情を言うべきなのか。差出人、郵便局、茅田さん? 茅田さんに言うのは筋違いな気もするが、一番確実な気もする。
「私もお手紙を書いてみようかなぁ。」
「思えば小学生以来、手紙なんて書く機会がなかったからな。」
「拝啓、敬具、だっけ。かしこ、なんてのもあったかも知れない。」
「なんだかワクワクしてきた。レターセットって何処にしまったかな。」
庭の草を抜きながら文面を考えてみる。そういえば、字を書くのも久しぶりに思える。商品のメッセージカードに字を添えることもあるが、まとまった文章を書くのはいつぶりだろうか。引き出しをあちこち探した結果、デザインだけを見て買ったレターセットが出てきた。買ってから何年経ったのだろう、やっと日の目を見ることとなった。
「ええっと。」
「『拝啓 茅田様』。」
『覚えていますでしょうか、以前手紙を届けに参った者です。茅田様宛のお手紙の件に関しまして、この度お手紙を差し上げることと相成りました。
実は、以前お届けしたもの以外にも、私の家に間違って届いたお手紙がたくさんありまして、もちろんその都度お届けしておりましたが、近頃どうも量が多いようなのです。つきましては、先方にどうかご住所はきちんとお書きくださいますよう、お伝えいただければ幸いです。』
「『敬具』。」
「敬語って難しい。」
「ちゃんと通じるかな。」
「日本人だから通じるよね。」
「じゃあ、これを明日投函して来よう。」
その日の夜は、遠足前夜の子供のようになかなか寝付けなかった。

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手紙をポストに投函した次の日、早速手紙が届いていた。切手が貼られていないので、直接ポストに投函したようだ。今度は宛先が私になっていて、住所も最後まできっちり書いてある。これなら堂々と封筒を開けられる。のりしろ部分は簡単に剥がせるようにという配慮からか、ゆるく貼り付けられていた。
私は封筒から便箋を取り出し、読み、そっと元の通りに便箋を封筒に入れて、少し髪を触った。
「ふむ。」
「お茶のお誘いが来た。」
「なんというか、優雅な人だなぁ。」
「お土産とか持っていったほうがいいのかな。」
「私、普段インスタントコーヒーしか飲まないからお茶菓子とかわからないな。」
とりあえず外に出ても恥ずかしくない格好に着替え、寝癖をなんとなくいい感じに流し、ついでに頰についていた緑の着色料をこすってみる。落ちない。もう何年も使っていなかったファンデーションを引っ張り出してきて、申し訳程度に誤魔化してみた。玄関に出してあったサンダルを横目で見つつ、下駄箱から相対的に綺麗なスニーカーを吟味する。
「それじゃ、行ってきます。」
「誰に言ったわけでもないけど、戦場に赴く戦士の気分だぜ。」
新鮮な気持ちで階段を駆け降りると、向かいのマンションは思いの外遠いように思えた。毎日のように手紙を届けに来ていたのに、ちゃんとしたお誘いがあると何だか変に緊張してしまっている。いやに長い赤信号を睨み、早く変われと念を送る。動いていないと人の目が気になってしょうがない。変な格好してないだろうか。
「赤だー。」
「信号の青は、青か緑かで度々論争が起きる。」
「昔は緑のことも青って言ったから、青の方がより正確かな?」
「あっ、また独り言いってた。独り言を言う癖は何言癖っていうのかなぁ。」
信号が青に変わったので、通勤ラッシュを過ぎて車通りの少ない道路を横断する。それでもなんとなく小走りになってしまうから不思議だ。エントランスを抜けて、エレベーターに乗る。3のボタンを押し、ゆっくりと上昇を始める感覚に身を任せた。308の部屋まで来たところで、詳しくなくてもお菓子くらいは持ってくるべきだったなと後悔する。今から戻るのも癪なのでそのままインターフォンを鳴らす。
「はい。」
「ええっと、緋田、です。」
「あっ、はい、今開けますね!」
パタパタと軽い足音が響く。不意の訪問ではないのである程度準備ができていたのだろう、すぐに扉が開いた。
「お待たせしました。」
「いえ、お邪魔します。」
通された部屋は掃除が行き届いていて、調度品のセンスもいい。落ち着いたベージュを基調とした服も、彼女によく似合っている。
「どうぞ、ゆっくりなさってください。」
「ああ、お構いなく。」
「今、お茶淹れますね。」
「手土産ひとつありませんで申し訳ないです。」
「私が勝手に呼んだのですから、お気になさらないで。」
「ではお言葉に甘えて。」
温もりを感じる木製の座卓には籠盛りのマドレーヌが用意されていて、お茶にはこういうものを合わせるのか、と思う。しばらく部屋を眺めて時間を潰していると、熱湯を注ぐ音と共に紅茶特有の香りが鼻腔をくすぐる。お湯を注ぎ終えた茅田さんがタイマーを持って戻って来た。
「いきなりお呼びしたのに来て頂いて、すみません。」
「いえ、どうせ暇だったので……。」
「……あの、敬語じゃなくていいですよ。」
「そうですか? じゃあ茅田さんも。」
「いえ、それはちょっと……。」
タイマーが鳴る。茅田さんは手元のボタンを押して音を止めると、台所へ立った。程なくしてカップとポットを載せたお盆を抱えて歩いてきた。湯気を立てるカップを差し出される。
「どうぞ。」
「ああ、戴きます。」
にっこりと笑う茅田さんは凡人には眩しい。茅田さんが口をつけるのを見て、私も一口飲む。強張っていた身体が少しだけ楽になる。
「美味しいですね。」
「よかったです。」
「……。」
「…………。」
沈黙が苦なわけではないが、迂闊に独り言が言えないと思うと自然と唇に力が入る。ちらりと茅田さんの方を見ると、カップを手に持ったまま瞑目していた。味わっているのだろうか。微動だにしない。
「……茅田さん?」
「…………ぐぬ。」
「寝てます?」
「むにゃ。」
「……え、本当に寝てるの。」
思わず肩を叩こうとした手を止めて、まずは茅田さんの手の中からカップを救出する。まだ中身が残っていた。カップをテーブルにそっと置いてから、茅田さんの肩を叩く。
「茅田さん起きてー。」
「…………。」
「紅茶冷めちゃいますよ。」
「……む。」
「マドレーヌ食べちゃいますよ。」
「ん……。え。」
「おはようございます。」
「……私、寝てましたか?」
「ええ。私、帰りましょうか?」
「すみません、大丈夫です……。」
「昨日は遅かったんですか。」
「それなりに……。締め切り近いので。」
「目閉じちゃってますよ。」
「や、やっぱりちょっと寝ます。好きにしててください……。」
「あ、布団で寝なくていいんですか。」
「ぐぅ。」
「……聞いてないな。」
床に倒れこんで寝てしまった茅田さんに、せめてもの気遣いでパーカーを枕にしてみる。少し冷めてしまった紅茶をすすりながら、それにしてもと考える。
「寝不足なのに。」
「何も今お茶に誘うことはなかったのでは。」
「無理してますって顔、してらっしゃるもんなぁ。」
死んだように眠る茅田さんの目元には濃いクマが浮かび、心なしか顔色も良くないようだ。締め切りと言っていたが仕事か何か、大変なんだろうか。この時間に家にいるということは、少なくとも会社勤めではないみたいだが。
「綺麗な手だなぁ。」
「ペンダコができてるけど。」
「それを差し引いても、細いし白いし。」
「9号入るんじゃなかろうか。うらやましいな。」
「顧客はやっぱり9、11号層が多いからその辺ばかり作ってるけど、私自身そこまで細くないからな。」
呟きながら白磁の指をなぞる。茅田さんは目を覚まさない。指先の赤い色が手の白さを一層引き立てている。思わず溜息を吐いた。この人の、この手の為に仕事をするのだったらどんなに良いだろう。ずっと触れていた茅田さんの指が僅かに動く。そのまま亀のように腕を巻き込んで丸まってしまった。
「寒いのか。」
「何か掛けるものでもないかな。」
立ち上がるのが億劫だったので、その場で首を巡らす。部屋の隅に無造作に放られたブランケットを発見した。ゆっくりと立ち上がる。ブランケットを手に取ると、下に何か置いてあるようだった。ひとまず茅田さんにブランケットを掛ける。振り返って見ると、ブランケットの下から現れた物は、
「パソコン?」
「と、何だっけ。」
「絵描きさんが使ってるやつ。」
「茅田さんは絵を描く人なのかな。」
茅田さんからの返答はない。ぐっすり眠っているようだ。私は何個目かのマドレーヌをかじりながら、次で最後だ、と思った。この最後のマドレーヌを食べてしまったら、お礼の書置きをして帰ろう。そう決めてから、マドレーヌに手を伸ばすのがなぜだか躊躇われた。

■□■□■□■□■□
「……あ、おはようございます……。」
「はい、おはようございます。」
「すみません、いきなり寝てしまって……。」
「いえ、気にしないでください。」
「ちょっと顔を洗ってきますね。」
「行ってらっしゃい。」
しばらくすると、ぱっちり目の開いた茅田さんが戻ってきた。
「お待たせしました。」
「ご気分は如何ですか?」
「大分良くなりました……。寝不足良くないですね。」
「せっかく綺麗なんですからちゃんと寝た方が良いですよ。」
「ご冗談を。でも今日はしっかり寝ようと思います。」
「……。」
「……。」
話題がない。まともに話したのが今日で2回目なのだから仕方ない気もするが、茅田さんの趣味なんかももちろん知るわけもなく。かと言っていきなり「ご趣味は?」などと聞き出せば、完全にお見合いだ。茅田さんの方を見ると、目が泳ぎ、泳ぎ、そして合った。
「何かお探しですか?」
「いえ、ちょっと、話の接ぎ穂を……。」
「あ、そうですか。」
「ええっと、ご趣味は?」
「手芸、と言いましょうか。」
お見合いが始まってしまった。

 

ちょっと続きます。

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