歪曲骨家。

創作小説置き場です。

キ(   )キ

「キツツキだ。」
 ふらりと立ち寄った画廊の片隅で、絵画ばかりが並ぶ中場違いに飾られた写真。緑が眩しい中景を撮ったのだろうけれど、僕の目に留まったのは画面右下の赤い羽毛。小さいがぶれることなく写っている。緑に浮かぶ赤は目立つ。撮影者がこれを意図したか否かはわからないが、僕はなんとなくその写真が気に入ってしまった。
「ああ、それね。置いてくれってしつこくてさ。うちは絵画専門だってのに、百歩譲って写真を置くとしても、もっと幻想的な遠景とかがいいんだがね。」
「じゃあなんで置いたんです?」
「出展料を倍出してった。」
 失礼だがそうまでして自分の作品を置いてほしい画廊だろうか。人の出入りが多いとは言えないし、認知度もそう高くはない。そもそも画廊に足を運ぶ人間なんてほんの一握りだろう。今どきならネット通販なり何なりで売ることもできるだろうに。ただ、ここになければ僕は、この写真とは出会わなかっただろうなと、ぼんやり思った。
「買います。」
「そうそう、売れやしねえよな。」
 お互いの顔を指差しあって数秒固まる。店主のさもしい頭髪を数える。三十二まで数えたところでわからなくなった。
「お兄ちゃんの眼鏡は伊達か?」
「れっきとした度入りですが。」
「……まぁ売れるに越したこたねえわな。現金で頼むよ。」
「釣りは要らないので新作が入ったら連絡ください。」
 財布から数枚の紙幣と、名刺を取り出す。トレイに置いたそれを目にした店主の反応は予想がついた。
「お兄ちゃん……紀田フィルムの?」
「い・ま・は、平社員。」
 強調部分に何かを感じ取ったようで一瞬梱包の手を止める。いやに丁寧に包んでくれた。カウンター越しに大きな袋を受け取る。
「……そうかい、まいど。」
「どうも。」
 社員の鑑、にっこりスマイルを発動したが苦笑だけが返ってきた。

■□■□■□■□■□
 高校を卒業して真莉との連絡が途絶えてから、人物の写真を撮っていなかった。三年間でいやというほど撮ったのに、まだ撮り足りない。彼女を撮り飽きるまでは他のモデルを撮る気になんてなれなかった。卒業式だって、写真部最後の仕事だと持たされた学校のカメラで彼女ばかり撮っていた。怒られるかと思ったら褒められて拍子抜けした。彼女は、私にだけ特別に見えるわけではないのだ。それが少し残念だったり、でもどうして残念なのかもよくわかっていなかった。そんなわけで風景ばかり撮っているのだが、はやく彼女を凌駕するモデルが現れて欲しいものだ。簡単に彼女を超えられてもそれはそれで複雑だが。
 なんてことを考えながら歩く。画廊に置かせてもらっていた写真が売れたというから早速新しいものを持って訪ねるところだった。数歩ごとに荷物を直す。額装したパネルは持ち運びには大層不便だ。四苦八苦しながらガラス戸を開ける。カウンター越しに店主と目が合う。扉くらい開けてくれてもいいと思う。
「はやいね。」
「準備はしてあったので。」
「ちょっと電話かけるから待っててくれ。」
「電話?」
「あんたの写真を買った人に、新作が入ったら知らせてくれって言われたんだよ。」
「私は帰っていいですよね?」
「そしたら代金振り込まなきゃいけないし面倒だろ、俺が。」
「あなたの都合じゃないですか……。」
 電話が繋がったようで、文句を言おうとするのを制される。私が言えたことじゃないが、平日の昼に電話をかけて繋がるというのはかなりの暇人だろうなと思った。昼休みかもしれないけど。
「飛ばしてくるってよ。」
「飛ばすって……具体的に何分です。」
「知らんよ。」
「何分かかるかわからないのに待つんですか、私も?」
「どうせ暇なんだろ。」
「忙しくはないですけど。」
 額を入れた鞄を壁際に立てかけて、客用の椅子に腰かける。すぐ帰るつもりだったから、暇をつぶせそうなものは何も持ってきていない。仕方がないので充電が切れるまで写真の整理をしようとカメラの電源を入れる。
「あの、開かないんですけど。」
 耳慣れない声がして振り向く。その姿を目に留めた瞬間に、反射的にシャッターを切ってしまった。
「自動じゃないよ。」「あ、すみませんつい……。」「あ、開いた。」
 ほぼ同時に三人が喋ってうちふたりはドアの話をしているのに私だけ謝っていた。しかも撮られたことに全く気付いていないみたいだ。
「で、新作はどちらに?」
「そこの鞄の中、それからそこの人が写真家。」
「えっ。」
「はぁ、どうも。」
 黒縁眼鏡の奥で丸くなった目が容赦なく視線を浴びせる。その視線から逃れるように手元のカメラに目を落とす。少し前に眼鏡をやめてから、ひとと目を合わせるのが苦手になった。私にとって眼鏡はファインダーと同じだったんだな、と思う。自分と、世界を隔てる壁。
「君が、キツツキの写真を?」
「そう、ですけど。」
「あの写真、部屋に飾ってるんだ。」
「それは、ありがとう、ございます。」
 お礼くらいは目を見て言わねばと顔を上げる。鳶色の髪が光に透けてきらきらしている。まぶしいなと、それしか出てこない。
「それと、僕の名前もキで始まってキで終わるんだ。よかったら覚えてよ。紀田尚貴。」
「はぁ。」
「君は?」
 名前を訊かれるとは思っていなくて、咄嗟にカウンターへ目を向ける。店主は休憩に出たのかいなかった。名乗るような者ではないんだけど、と心中で前置きしながら息を吸う。何も言わずに吐き出してしまった。もう一度吸う。
「新田、永実です。」
「新田さんね、覚えた。」
「はやいですね。」
「さて僕の名前は?」
「き、きだなおき……さん。」
「覚えてくれて嬉しいよ。」
 ふわりと微笑んだ顔はどこか、彼女と似ていて。ああ、だからまぶしいのだなと思った。私は壁越しの、向こう側の彼女しか見たことがなかったから。すぐにでも四角い枠に切り取って収めてしまいたい。私が、咀嚼して精査して理解できる範囲に。
「あの、いつかあなたの写真、撮ってもいいですか。」
「僕の写真?」
「いえ、はい、えーとその、そうです。」
「プロに撮りたいと思ってもらえるなんて光栄だな。今日でもいいよ?」
「そうですか? ではお言葉に甘えて……。」
 いきなり撮られても平気な格好を普段からしているのかこのひとは、とかやっぱり相当な暇人だなとか、感想がぐるぐるめぐる。
「じゃあ外、でましょうか。」
「近くに雰囲気のいい公園があるよ。新田さんお昼は食べた?」
「いえ、まだです、けど。」
「なら一緒に食べない? ご馳走するよ。」
「いえ、お構いなく。」
「遠慮しなくていいのに。」
「初対面の人に遠慮するなって方が難しくありません?」
「それもそうか。じゃ、また今度振舞わせてよ。」
「はぁ。」
 なかば無理矢理名刺を握らされる。紀田尚貴。変な人だ。勝手に次回を約束されていたこともこの時は気づかなかった。
「そうだ。新作、見せてくれる?」
 頷いて立てかけてあった鞄から額を取り出す。表面のガラスがくっきりと反射して目がやられる。
「これ、自分で吹いたの?」
「いえ、子供が遊んでたんです。」
 球形の遊具と、シャボン玉。どこか懐かしい光景。初めて歩く道だった。
「……好きだよ。」
「えっ? あ、ああ……はい、ありがとうございます。」
「キツツキと同じ大きさだよね? はい、お代。」
「あの、多いですけど……。」
「お昼代の足しにでもして。」
「う、受け取れませんってば。」
「もらってよ。いま細かいのないんだ。」
「……すいません。」
「なんで謝るの。正当な対価を授受することに何ら罪はないでしょ。」
「本当にそう思ってますか。」
「もっと自信持ったらいいのに。僕はつくる側じゃないからわからないけれど、君の写真には価値があると思うよ。」
 まるで隠すのを惜しむかのようにゆっくりと額を包み直す。そうやって丁寧に扱われるのを間近で見ていると照れてしまう。
「……価値を決めるのはいつだって消費者なんです。」
「うん。」
「だから、あなたにそう言ってもらえてうれしい。」
 彼女が同意してくれたのは、彼女もつくる側だからじゃないのかと。色眼鏡なしで作品を見てくれて、感想を述べてくれる人なんて初めてだ。いいひとと知り合いになれたかもしれない。予想外の収入もあったし、と潤った財布を鞄に仕舞いながら思った。

◇◆◇◆◇◆◇◆
「はじめて会ったときさ、正直あなたのこと金ヅルだと思ってたのよね。」
「今は?」
「ごめん、今も金ヅルだと思ってる。」
「ははは。」
 クーラーの効いた部屋で、ふかふかのソファに横たわりながら見るともなしにテレビを見ている。こんな贅沢があろうか。尚貴さまさまである。
「別にいいよ。君が僕のそばを離れない理由になるならなんだって。」
「冗談よ、調子狂うわ……。」
「本当はどう思ってるの?」
「アイスとってきて。抹茶。」
「あ、はぐらかした。」
「うるさいわね、何だっていいでしょ。はやくとってきてよ。」
「えー、気になるなぁ。」
「ほら行った行った。ひと口あげるから。」
 言ってからしまったなぁと思った。立ち上がった彼はめちゃくちゃ笑顔になっていた。

赤と重ねて

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 兄さんは、可哀相な人だった。

■□■□■□■□■□
「あ。」
 小さく声を上げた拍子に小刀を取り落として、それが足に刺さらないように後ずさる。柔らかい土を少しばかり抉って、冷たく閃く。切先には濁った赤が付着して、しかしそれが果実のものでないことはわかっていた。
「にいさん。」
 向かいでヘタを取っていたミナトが顔を上げた。長い髪が肩を滑り落ちる。まっすぐに向けられた目は嘘を許さない。
「ちょっと切っただけ、大丈夫。」
 努めて明るい笑顔を振りまきながら答えた。目尻に滲んだ涙には気づかれていないことを祈る。昔から不器用だった。刃物を扱えば怪我は付き物、幾度となく繰り返してきた手当も一向にうまくはならなかった。止血をしようとしてもどんどん溢れてくるばかりで止まる気配がない。いっそのこと放っておくかと諦めると、まだ赤が滴る手を取られる。
「ミナト? 汚れるよ。」
 ふるふると首を振った彼女はその小さな口のまわりを赤で汚しながら、滴る血を丁寧に舐め取る。
「駄目、ばっちいから。」
 吐き出すように促しても、僕の指を咥えたまま首を横に振る。歯が傷口に当たる。白いブラウスの胸にこぼすんじゃないかと気が気でない。
「……じゃあ、兄さんに頂戴。」
 なおも食い下がろうとする歯に圧迫される痛みに顔をしかめながら、指を抜き取る。ほんのり赤い糸を引いて、それも途中で切れた。口まわりに固まった赤を舐め取ってから、膨らんだ頬いっぱいの唾液を引き受ける。鉄の味だ。お世辞にも美味しいとは言えない。けれど柔らかな唇も小さな舌も、僕が求めてやまないもので。僕は彼女の一番そばにいるけれど、彼女は絶対に僕のものにはなってくれない。彼女の白い髪も翡翠の眼も僕のそれと何ら変わりはないのに、僕らは別のもので。数多のズレが生んだ血塗られた口づけだけが、愛してやまないミナトと、妹と交わした唯一の契りだった。

■□■□■□■□■□
 街のひとはもうほとんど生きていなかった。対処法を探す医者達は真っ先に全滅した。埋葬が追いつかないまま葬儀屋も死に、正規の手続きを踏んで弔うこともできなくなった。大きな穴を掘って、次々と投げ込まれる死体を見るのはあまり気分のいいものではなかったし、自分もいずれああなるのか、それとも埋めてすらもらえないのか、そういうことを考えると余計に気がふさぐ。
「それに第一。」
 ミナトがそういう目に遭うのは耐えられなかった。どこの誰とも知らない奴の手でその他大勢の仲間入りを果たすなんて。
「どうかした?」
「……いや、何でもないよ。」
「そう?」
「そう。」
 食べ終えた食器を洗おうと席を立つ。踏ん張りがきかずにつんのめった。赤く変色した指を隠すためにずっと靴下を履いて過ごしているけれど、これではすぐにバレてしまいそうだ。へらへらと取り繕いながら腕をまくる。赤茶の筋が覗いて、しまった、と思う。彼女の様子をうかがうと即座に目が合った。
「兄さん、また手首切ってるの。やめてって言ってるのに。」
「違うって、山菜採ってたら枝で切って……。」
「その言い訳聞き飽きたわ。」
「その、兄さんにも事情があるんだ、だから、ね。」
「その事情とやらを話してくれてもいいじゃない。」
「いやそれは、それだけは無理。」
 大げさに顔の前でバッテンをつくる。彼女は溜息を吐いて食事に戻った。
「……そろそろ髪切った方がいいと思う?」
「思わない。」
 即答だった。しかもこちらを見向きもしなかった。そうか、と呟きながら髪を縛り直す。少し切りに行くのをさぼっていたら、長いほうがいい、と言われて伸ばし始めたのだった。親には見分けがつかないからやめろと言われたが、彼女と僕は有する記号の種類が似ているだけで本質は違うのに。だいたい年端も行かない子供ならまだしも、二十歳目前の男と十七の女の子を見間違うだなんてどんな目をしてるんだ。まぁ、そんな親も今は穴の底に積み上がっているんだけど。つい先週、夫婦そろって心臓が止まったばかりだ。不思議と涙は出なかった。両親は両親で気持ちが悪いくらい仲が良かったし、ふたりの間から弾き出された僕と彼女は自然と一緒にいることが多くなった。確かめたりはしなかったけれど、僕の相手が嫌になったから彼女をつくったんじゃないかと思っている。
 結果的に、僕はそれでよかったけど。彼女は、それでいいとは思えない。街の人からは奇異の眼で見られるし、彼女をその視線にさらしたくないから家に引きこもった。外に出るときも人の少ない早朝や深夜を選んで、そうまでしても彼女のそばを離れたくなかった。
「じゃあ、まだそのままにしておこうかな。」
 うん、と呟くのが聞こえた気がした。

■□■□■□■□■□
 赤は足首まで侵食してきていた。昨日はまだ歩いてみようとする元気があったが、今日はもう何もする気が起きなかった。枕元に置いておいたナッツを適当につまんで頬張る。もはや咀嚼するのも面倒臭かった。コップの水で流し込んだ途端に、派手な音がして噎せる。
「兄さん。」
 薄い壁越しに彼女の声が聞こえる。体を捻って壁に耳をつける。
「どうした?」
「……私も歩けなくなった。」
「そっ、か。」
 他に何を言ったらいいかわからなかった。お揃いだねも、お大事にも、ごめんねも違うような気がした。
「ねえ兄さん。」
「ん?」
「私が見に行けないからって、また手首切らないで。」
「……ん。」
 手に持っていた小刀をもとの場所に戻した。見えていなくてもわかるのか、と少し嬉しくなったけれど、心配しかさせてないなと申し訳なくもなった。
「兄さんは、ここを出ようと思ったことない?」
「ここって、家?」
 彼女のことをずっと見てきたはずなのに、こんなことを考えているなんて気づきもしなかった。面食らうと同時に、何もわかってないじゃないか、と苦笑が零れる。
「そう。街でもいいけど。」
「ないよ。」
「ないの? お母さんもお父さんも冷たかったし、訳の分からない病気が流行ってるのに。」
「兄さんにはミナトがいればいいから。」
「私が出ていくって言ったらついて来る?」
「歩けないんじゃ無理だ。」
「まぁ……そうよね。」
 それからふたりして黙り込んだ。腹が減ったわけでもないのにナッツをつまんで、また水で流し込む。何度かそれを繰り返して、飽きて、こんなにつまらない日が、死ぬまで続くのかと思うと嫌気がさした。
「ミナト。」
「なに?」
「兄さんのこと名前で呼んでみてよ。」
「名前なんだっけ。」
「酷い。」
「冗談。でもどうしたの急に。」
 本気で涙が出かけた。
「いや、特に何かあるわけじゃないんだけど。」
「ふーん。」
「……呼んでくれないの?」
「手首切る理由を教えて。そしたら呼んであげる。」
 逡巡する。いろんなものを天秤にかけて、かけた結果言うことにした。聞く人も、噂する人も、そもそも自力で動ける人はいないだろうから。
「兄さんのことはどれだけ気持ち悪がってもいい、けど、ミナトは自分のこと嫌いにならないって約束してほしい。」
「ちょっと、私絡みなの?」
「他に誰が?」
「……いないよね。」
「どう? 約束してくれる?」
「約束、はできるかわかんないけど、話してみて。」
「……僕はミナトのことが好きなんだ。」
「ありがとう、私も好きよ。」
「いや違うんだ、家族愛とかじゃなくて。その、性愛?の対象、みたいな。ミナトのことはそういう目で見ちゃいけないってわかってた、わかってたけど。あのさ、昔兄さんが指切った時のこと覚えてる? 指なんて今まで何百回と切ったから覚えてない、よね。」
 言葉尻が徐々に小さくなって消える。壁の向こうからは何の反応もなかった。
「……ミナト?」
「覚えてる。続けて。」
「そのとき、に、ミナトとキスできたのが嬉しくて、その、血を流したらまた、できるんじゃないかなーと、思って……。気持ち悪くてごめん、本当に。」
「兄さんは馬鹿なの?」
「え?」
「意味わかんない。そんな婉曲表現伝わるわけないでしょ。」
「そうだよね、ごめん。」
「ごめんじゃなくて、死んだらどうするの? 兄さんが死んだら私どうすればいいの?」
 ほとんど金切り声で叩きつけられた言葉に目をむく。僕が死んだところで、彼女は何ともないと思ってた。僕が両親に対して抱いていたそれと同じものを、彼女は僕に抱いているんだと思い込んでいた。
「私だって兄さんのこと、大事に思ってるんだから。」
 でも、僕と彼女の気持ちはやっぱり違うみたいだ。ちょっとでも期待したのが恥ずかしい。同じはずがないのに。僕と彼女は、別のものだ。
「じゃあさ、最期に、会いに来てよ。」
「だから歩けないってば。」
「うん、それでも、さ。」
 手にした小刀に映る自分の顔が、ひどく情けない。いつもか。震える手で首筋にあてがう。金属の冷たさが、不安となって襲い来る。
「どうか妹だけは、生き延びられますように。」
「ちょっと兄さん? 何言ってるの?」
 噛み合わない歯を無理やり食いしばって、手に力を籠める。止めていた息を吐き出しながら、重力に任せて掻き切った。
「兄さん? 聞いてる? 兄さん、ミラト!」
 赤く染まる視界の中、彼女の呼ぶ声が遠のいていく。結局、赤からは、逃れられないんだなと、そう思った。

■□■□■□■□■□
 這いずって壁の向こうに辿り着いた時、兄さんはもう冷たくなっていた。
「私どうすればいいの?」
 兄さんは何も答えてくれない。もう何も聞こえてない、見えてない、感じてない。開いていた瞼をそっと閉じる。
「答えてよ、兄さん……。」
 涙は一筋伝い落ちただけで、それもすぐに渇いてしまった。外から、訳の分からない言葉が聞こえた。ドアを開けて、階段を上る硬質な足音。私が開けたあとそのままにしていた扉の陰から出てきた人物の顔は、逆光でよく見えなかった。ただ、その人が、兄さんと同じ髪型でなくてよかった、とだけ思った。

 蝶が見たいと思った。

 暗褐色の壁、床、天井に囲まれた小さな部屋。娯楽と呼べるものは壁の三方に寄り添うように設置された本棚、にまばらに収められた十数冊の本。本棚のひとつには穴が空いており、毎日の糧が気づけば置かれている。本棚のない壁には鉄格子の嵌った窓、ガラスは嵌っていないため雨や雪が時折吹き込む。手は届くが外の景色を伺い知ることは出来ない。空はいつも青かった。雲も雨も雪も青かった。
 ある時本で読んだ。本はいつの間にか入れ替わっており同じ本を一度として読んだことはない。その時読んだのは確か辞書で、細かい字が薄い紙にびっしり敷き詰められていた。蝶。ひらひらと舞う翅。外を飛ぶ昆虫。
 食事はいつも決まってロールパンひとつとひとかけのバターだった。パンを食べてしまってから、バターを掴んだ。窓に向かって投げた。届かずに壁にぶつかった。ぐちゃりと音を立てて潰れた。
 次の日も投げた。窓に届きはしたが今度は鉄格子にぶつかって向こう側へ落ちた。鉄格子の隙間に向かって投げられるようになるまで数日を要した。鉄格子の隙間を抜けた欠片も、向こう側へ落ちていった。
 寒くなってきた。バターを薄く削った。投げると、ぺたりと音を立てて床に着地した。雪を集めた。それでバターを冷やしてより薄く削った。一回転して落ちた。
 翅に重りをつけてみた。投げた。
「ああ、」
 鉄格子を抜けて、青い空へ。すうっと消えていく。

「蝶だ。」

 この部屋では彼の思ったことが全てだった。彼にとってそれは確かに蝶だった。

解なし、または複数解

「ねえ。」
 ペルシャ絨毯に不似合いな炬燵に顎をのせながら、目の前で蜜柑をむいている彼に問いかける。
「なに? 半分食べる?」
「うん。」
 綺麗に筋まで取られた蜜柑を半分受け取る。そのまま口に放り込んだ。甘酸っぱい果汁が口内に広がる。あたりだ。正月くらいは帰ってきてくれとせがまれて三ヵ月ぶりに母国の大地を踏んだ。もともと一人でも平気な方だったし彼とも連絡を取り合っていたから、半年ほど帰らないつもりだった。それでも、呼ばれたら帰ってきてしまうんだなぁと、使い込まれた飴色の天板を眺めながら思う。
「そうじゃなくて。」
「ん? ああ、炬燵、やっぱり買い替えた方がいいよな。大分年季入ってるからね。」
「炬燵はこれがいい。」
「ならアイス持ってこようか。何味がいい?」
「抹茶がいいけどちょっと待って。」
 炬燵から出ようとする彼を呼び止める。こういちいち世話を焼かれていては炬燵から出られなくなる。座り直すと彼の爪先が私のかかとにぶつかった。ごめん、と呟く彼に首を横に振って答える。
「あのさ。」
「うん。」
 黒縁眼鏡の奥で気弱そうな目がふわりと細められる。手元にカメラがないのが惜しい。かわりに両手で四角を作って目の前に掲げてみた。
「かしゃ。」
「いえーい。」
 ピースまでつけてくれた。途端に恥ずかしくなってきた。子供か。
「それがしたかったの?」
「いや、違う、けど。」
 喉の奥で問いが絡まって解けない。彼は待ってくれている。いつも、待っていてくれる人だった。どうしてなんだろう。唾を飲んで絞り出す。
「……私といて楽しい?」
「楽しいよ。」
 即答だった。
「なんで?」
「なんでって……なんでかな?」
 ゆるゆるとはねた鳶色の髪をかく。年末はどこにも行かないで年賀状だけひたすら書いていた。私が撮った写真を使ってくれた。君とのツーショットを載せたいんだけど、と言われたが絶対に嫌だと言った。私が写った写真が各家庭にばらまかれるなんて御免だ。じゃあ大事にしまっておこうと言っていた。とことんプラス思考だ。
「理由もなく楽しいの?」
「そもそも理由って必要?」
 言われてはっとする。彼女もそんなことを言っていた。私はあの時も、今もそれがわからない。
「わからない。」
 私にはわからないものが、彼や彼女にはわかる。それが羨ましくもあって。
「永実。」
「なに?」
 名前を呼ばれるのは久しぶりだ。私はこんな名前だったなぁと、他人事のように思う。
「そのうち君も要らなくなるよ、理由。相手は僕じゃないかもしれないけど。」
 眼鏡を遠ざけて、だんだん彼の両目が小さくなっていく。ヒラメみたいだ。カレイだっけ。どっちでもいか。
「……いいえ。」
 小さく呟く。眼鏡をかけ直した彼が小首をかしげるが、続きはしまっておくことにした。
「何味にするの?」
「え?」
「アイス。」
「……バニラ。」
「私は抹茶。」
「うん。」
「取ってきてくれるんじゃないの?」
「ああ、そうだった。」
 腰を上げる彼に両手を合わせて、お願いしまーすと茶化す。本当に炬燵から出られなくなってしまいそうだ。散らかっていた蜜柑の皮を集めて彼に持たせる。
「これも。」
「はいはい。」
 しばらくしてアイスとスプーンを手にした彼が戻ってくる。いつもの少しお高いカップタイプだ。このメーカーは抹茶が濃くて大変よろしい。
「ね、永実。」
「ん?」
 緑の湖畔にスプーンを突き立てながら生返事する。
「ひと口もらってもいい?」
「いいけど。」
 何も考えずに答える。答えてからスプーンに乗っていた欠片を口に放り込む。咀嚼しながら今のあげればよかったなと思い、もう遅いなと思い直す。カップを彼の方に押しやって、こちらがあげるからには向こうのももらわなくては筋が通らない、身を乗り出してバニラのカップに手を伸ばす。一応お伺いを立てるつもりで顔を上げると、すごくぽかんとされていた。
「なに?」
「いや、珍しいなと、思って。」
 何か珍しいことがあっただろうか。ふたりして目を瞬く。
「ひと口くれるんだよね?」
「だからあげるってば。」
 カップを取ろうと下を向くがすぐに彼の手に遮られる。なに、と言いかけた口も塞がれる。バニラと抹茶が舌の上で溶け合って、冷たかった口内も瞬時に熱を帯びる。そうだった、彼はこういう回りくどいことを平気でするような男だった。今更のように思い出して、それでも、嫌な気はしないものだなと思う。絶対に言ってやらないけど。
「回りくどい。」
「ごめんって。」
 柔らかな髪をかきながらへらへらと笑う。そういう顔をされるとどうも怒る気をなくしてしまう。
「まぁ別にいいけど。」
 なんだかんだ私はこのひとに毒されているんだろうなと思った。あまりに穏やかで、遅効性の毒だ。

切欠

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 シングルサイズのベッドはノーアふたりが寝転ぶには少々、いやかなり、手狭だった。缶詰、という言葉が頭をよぎる。今はもう存在しないが、昔は食料を保存するために金属の容器に詰めたらしい。わざわざ取り出しにくくしなくても干せばいいのに、と思いながら読んでいた本を閉じた記憶がある。そんなことはさて置き、どうして冬が来る前に何とかしなかったのかという後悔ばかりが脳内を駆け巡る。ベッドが狭いというのは数年前から薄々感じていた。しかしベッドを作るといっても、家自体がさほど広くない上に設計は僕がしなければならないし、力仕事は彼に任せるにしても組み立ての指示は当然僕の仕事だ。本音を言ってしまえば面倒臭かった。かと言って毎晩椅子で寝るのは辛いし、角のせいで床に寝ることもできない。旅寝のスタンダードはハンモックだ。ふと、先代はノーアのくせに角がなかったことを思い出す。よく森で倒れているひとだった。
「ドールならもっと寝やすかったろうに。」
 寝台を軋ませながら寝返りを打ち、何度も頭の位置を直す。巻き込んでしまった掛け布団を彼の方に押しやって、枕に頬をうずめる。耳の血流が途絶えて冷たくなっていくのが分かった。
「……なー…………。」
 甘ったるい声が後頭部に降り注ぐ。寝返りを打ったばかりなのに反対側を向くのが癪で、顔を背けたまま答える。
「何。」
「あのさぁ、寝る前に、最後、ねー、かお……。」
「結論だけ言って。」
「じゃあさ、言うから、言うよ、こっち向いて。」
 ああもう、どうしてこうも。ぐるぐると半回転して彼と向き合う。琥珀色の瞳は眠たげな瞼に半分以上隠されていて、それでいてきらきらと訴えかけてくる。
「はい、何。」
「あのね、おれ明日から、起きないと思う。」
「だから何。」
「ちゅーして。」
 へにゃ、と融けるように笑いながら伸ばした手を、放り出された手に絡める。冷たい彼の手に熱を奪われ、同じ温度になるのに時間はかからなかった。
「たまにはカシャからしたら?」
 意地悪く笑ってみせる。寝ぼけ眼を見開いて呆ける彼の顎に手をやって、下唇をめくる。綺麗に並んだ歯列と桃色の歯茎がのぞいて、指に触れる柔らかい唇に、じわりと唾液があふれる。
「えー。」
「じゃあしない。」
 唇から手を離して仰向けになる。繋いでいる手はぎゅっと握りしめられて、振り解けない。
「えぇー。」
 しばらく抗議が続く。目を瞑って狸寝入りを決め込んだ。沈黙と、手を握る力の強弱だけが伝わってくる。
「かお、ほんとに寝たの?」
「なー、かおってば。」
「かーおーぉ……。」
 答えてしまいそうになる唇を噛んですべてスルーする。なんてったって今僕は寝ているから。
「かおー……。」
 諦めたのかそれ以上の呼びかけはない。かわりに布団を跳ねのける音と、寝台のきしむ音が控えめに数回。
「いぎっ。」
 思わず目を開ける。髪を引っ張られたのか左側頭部が痛い。横目に見ると彼がついた肘の下に髪が挟まっていた。二の腕をつまんで抗議する。何のことかわかっていないようで目を瞬かれる。
「肘、髪、挟まってる、痛い。」
「あっ、あ、ごめん、かお……。」
 慌てて肘をつき直す。顔が近い。なんだかんだ目は覚めた様でぱっちりしている。垂れ下がってくる前髪を払いのけて、白い肌に指を這わせる。頬が薄桃に染まっていくのを眺めて、優越感に浸る。
「まだ?」
「ま、も、もうする!」
 気合を入れた勢いでしっかりと目を瞑って、徐々に近づいてくる。一瞬触れたかというところで急速に後退していく。
「あー!やっぱり無理!」
「意気地なし。」
「……かおー。」
 眉尻を下げて、目を潤ませて。彼は頭こそ弱いけどこういう仕草からわざとらしさを排せるのは一種の才能だと思う。そしてそれに僕は勝てない。ずっと繋いでいる右手はそのままに、左腕を彼の首に回す。ぶら下がるように頭を起こして口づけた。手と口を同時に放して倒れ込む。
「起こして。」
 繋いだ右手を引かれ、上半身を起こす。彼の正面に回り込み、長い足をまたいで膝をつく。これでやっと目線が合うのだから世界は残酷だ。主に身長的な意味で。
「終わったらちゃんと寝る?」
「わかってる、うん、大丈夫。」
 きつく右手を握りながら、左手には腰を抱かれる。薄い胸板越しに伝わる彼の音。同調するように速くなっていく自分の音。月さえ出ていない夜には光る目だけが道標だった。頬に手を添えて薄く色づいた唇を舐める。そのまま自分の唇も湿らせて吸いつく。甘い唾液を掻き混ぜながら、ざらざらした舌で触れ合う。離れるときにかけた橋をすぐに近づいて壊す。合間で上がった息を整えつつ、彼が泣いていないことに少し安堵していた。
「かお。」
「何。」
「ありがと、おやすみ。」
「……おやすみ。」
 いい夢を、と言いかけたがやめた。まだ眠っていたいなんて言われたくない。
「愛してる。」
「へへ、おれもー。」
 だんだんと感覚が麻痺してきた手を握り直しながら、琥珀の残像を眺める。この手は、朝まで解けないでいるだろうか。

■□■□■□■□■□
 小鳥のさえずりと、窓という名の穴から差し込む陽光に揺り起こされる。日が高い。すっかり昼だった。いつもは僕より先に起きる彼も今日は寝ている。繋いだ手はそのままになっていて、寝相がいいなぁとか、そんなことを思った。指を一本ずつ解いて冷たい額に軽く口づけを落とす。掛け布団を直して今日は何をしようかと首を巡らす。街の方も今頃静かになっているだろう。天気もいいし、例の美容室でも訪ねてみようか。
「茶色いお茶のことも知りたい。」
 というのは半分口実みたいなもの。冬に来てと言ったあの婦人。カチェといったか。僕と同じなのか、それとも。
「あと、」
 彼女の恋人。一見ノーアのようだが角がなかった。気がする。何しろ邂逅は刹那のことだったのでうろ覚えだ。
「それに。」
 伸び放題で時々雑に切られた髪をつまむ。
「ひとに切ってもらうのも、たまにはいいかな。」
 問題は、金がないということだ。

■□■□■□■□■□
「ごめんください。」
「はーい。」
 ドアは外開きだった気がするのでノックした位置から一歩下がる。すぐにドアが開いて、鼻先を掠めていった。下がり足りなかったようだ。
「あら、いらっしゃい。」
 カチェがドアの隙間から顔を出す。室内の暖かい空気が漏れ出て、感覚の薄れた耳にふわふわと当たる。外の空気ですっかり冷えた体には心地いい。
「お邪魔します。」
「今日は緑のお茶も用意しておいたわ。」
「ありがとうございます。あの、実は、髪を切ってもらいたくて。」
「じゃあこちらの椅子にどうぞ。」
「でも、その、お金がなくて。つまらないものなんですけど、これ、お代の代わりにできますか。」
 秋のうちに集めておいた胡桃を一袋、彼女の手に握らす。そのまま突き返される。
「今日は要らないわ、お代。」
「……どうしてですか?」
「あなたの角が抜けたら、持ってきて欲しいの。それがお代。」
「角、ですか。」
 指し示された椅子に腰を下ろし、首にタオルを巻かれる。その上からケープに腕を通し、鏡に映る自分と目を合わせる。霧吹きで髪を濡らし、てきぱきと櫛を通していく。
「イヴァって、知ってる?」
「いえ……。」
「同族喰らい。」
 ライムグリーンの瞳と、鏡を通して目が合う。
「そう、でしたか。」
「私はね、角を、食べちゃったのよね。昔。」
 上方の髪を留め、鋏を入れていく。はらはらと落ちる髪が光を反射して、その光線を再び鋏が断ち切っていく。
「前の彼と喧嘩別れして、その時彼の角折っちゃったんだけど。」
 思わず角に手を伸ばしそうになる。途端に背後が不安になってきた。
「普通なら、角を手に入れれば付け角に加工するのよね。でもあいつの角なんか見るのも嫌だったから、すりおろしたのよ。」
 背中を嫌な汗が流れ落ちる。すりおろすって。角を、すりおろすだって。
「そうしたら粉になるでしょう。後でどうとでもしてやろうと思って置いといたの。そうしたらパンに入れる小麦粉と間違っちゃって。」
 運が悪いって思ったけど、付け角を作るって理由で角は手に入れられるし、運がよかったのかもしれないわ。彼女はそう言って鋏を置き、鏡に向かって微笑んだ。

■□■□■□■□■□
 そこにあるはずのない小麦粉の存在に気づいたのは、焼き上がったパンを怒り任せに頬張っている時だった。さっと血の気が引く。口に残っているパンは慌てて吐き出したが、もうほとんど飲み込んでしまっていた。視界をちらちらと緑の点が舞う。顔を洗って、そのまま水を飲んで座り込む。
「食べ、た。」
 禁忌とされている同族喰らい。なぜ禁忌とされているか。そんなことは考えなくてもわかる。同族の体が、美味しくて、美味しくて、美味しくて堪らないからだ。水を飲んでなお口内に残る甘美な後味。思わず吐き出してしまったが、決して不味いなんてことはない。むしろその逆、何物にも代えがたく、いくらでも欲し、すべて胃に収めて体の一部にしてしまいたい。
「あんなやつの、食べ、た、私?」
 混乱する頭とは裏腹に手はパンへと伸びる。きつね色に焼き上がったそれはほのかに暖かく、半分に割ると湯気が一筋立ち昇る。目の前が一瞬曇り、気づいた時には顎はもぐもぐとパンを咀嚼していた。
「やだ、いや、だ、や……。」
 幸い誰にも見られることはなかったが、どうしてすり潰したりなんかしたのだろう。どうしてパンを焼こうなどと思ったのだろう。どうして焼き上がってすぐに食べてしまったのだろう。後悔ばかりがぐるぐると渦を巻き、その中心へ否応なく引きずり込まれていく。
「私、私……これから、」
 どうやって生きていけばいいの? 後悔の最後尾にぽつりと付随していた不安。気づいた途端に雷に打たれたように体が強張り、痺れを伴った気怠さが支配する。ゆっくりと倒れ込み、冷たい床に頬をつける。その拍子に零れた涙が、鼻の上を伝って髪に沁み込んでいった。

■□■□■□■□■□
「こ、こんにちは……。」
「いらっしゃいませ、ずいぶん小さなお客さんね。」
「あの、あの、僕、お金、なくて……。でも明日、お祭りの出し物に出るんだ。だから、かっこよくして欲しくて……。いつか必ず払います、から!」
 大きな紅葉色の瞳と目が合う。あいつの眼もこんな色だった、ふとそんなことを思い出して口内に唾液が満ちる。少年の角は年相応に小振りで可愛らしい。次から次へと溢れる唾を飲み込みながら、どう答えるべきか悩む。この場合の適切な対応は『お父さんやお母さんは?』と訊くこと。頭では理解していたがその時の私はそうしなかった。少年と目線を合わせるようにしゃがんで、耳元に囁きかける。
「生えかわりの時に、抜けた角を持ってきてくれる?」
「いいけど、でも、なんで?」
「付け角を作るの。」
「ふうん。」
 付け角の必要性に疑問を抱いているのか首を傾げていた少年だったが、最終的には頷いてくれた。カット用の椅子に座らせ、タオルを首に巻いてケープをかぶせる。後ろで髪を括っていた紐を解き、湿らせながら櫛を入れる。アッシュグレーの細い髪は絡まっているのか、ところどころ櫛通りが悪い。いちいち解しながら櫛を入れていると、絡まっているのではなく塗料がついていることに気づく。絵描きの息子だろうか。
「お名前は?」
「カル! お姉さんは?」
「私はカチェ。カル君は絵描きさんの子なの?」
「父さんが看板を描くお仕事をしてるよ。明日はね、王様の絵を描くんだ!」
「そうなの。うちの看板もお願いしようかな。」
「父さんに訊いてみるね。」
「違う違う。カル君にお願いしたいの。」
「僕? でも僕、まだ修行の途中なんだよ。」
「それでいいのよ。」
 訳が分からないといった風に首を傾げる。頭を支えて垂直に戻し、カットを再開する。肩甲骨くらいまであった後ろ髪は思い切って肩口まで切りそろえ、さらに整えながら短くしていく。長い前髪も目にかからないようにし、後で編み込めるように右側は少し長く残す。
「お姉さんはなんで美容師になったの?」
「んー、なんでかな……。自分の髪を、切り飽きたから、かな。」
 鋏を持ったままライトブラウンの髪をつまむ。鏡に映る私はベリーショートの髪を無理矢理つまんでいるせいか、側頭部に鋏を突き付けているように見える。鋏を置いてタオルに持ち替え、顔にかかった髪を払っていく。それが終わるとケープやタオルを取って、右の前髪を編み込み、後ろでハーフアップにする。
「はい、できた。」
「すごい! お姉さんすごいね! あっでも、お祭りは明日からだよ。僕自分でこんな風にできないよ……。」
「明日の朝もいらっしゃい。」
「……いいの?」
 夕焼けの色を映した瞳が期待と不安に揺れながらこちらを見る。そういう目はだめだ。あいつを思い出す。目を閉じて振り切り、いいよ、とその柔らかい髪を撫でた。

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 明日から収穫祭。今日は準備のため午後から休みだ。カルを見送ってから店仕舞いをする。暖炉の火を消し、ドアを一枚隔てた住宅部分に引っ込む。暖かかった店舗から底冷えのする自宅に戻ったことで、一気に現実を突き付けられた気がする。
「私は、今も変わらずイヴァで。」
 あんな小さな子の角まで欲した。
「どうして私はノーアじゃないの。」
 どうして我慢できないの。私ひとり堪えればそれでいい話なのに。騙して、嘘を吐いて、ひとに頼ってしか生きられない。
「ひとの髪を断つのはあれほど容易いのに。」
 自分ひとりの命さえ絶つことができない。堪える強さも、終わらせる強さも持ち合わせていない。
「こういう時だけ、会いたいなんて思うのは、ずるいよなぁ……。」
 ずるずると壁伝いに座り込んで膝を抱える。小さくて、弱い自分が嫌でヒールの高い靴を履いた。ノーアみたいに髪を切った。でも中身は何も変わっていない。
「ごおぉっ、おっめんくだざいぃ……。」
 耳を疑った。こんな情けない声を出した覚えはない。そもそもまだ泣いてない。泣く予定があったわけではないけど。
「おおぉー、めえっえ、え、んさいうっ……。」
 私の声じゃない。外? ふらつきながら立ち上がってドアを開ける。店舗に入ると声がはっきり聞こえてきた。さらにドアを開けて、開けたところで、何かにぶつかった気がした。ドアの裏側を覗き込む。
「だ、大丈夫?」
「ええっう、んんぁ……。」
 大丈夫じゃなさそうだ。鼻血が出ている。とりあえず屋内に引っ張り込んで座らせる。手近にあったタオルを濡らして鼻にあてがう。
「ああっう、いお、う。」
「喋らなくていいから鼻血止めよう、ね。」
 アッシュグレーの髪を振り乱しながら頷く。編み込んでいた前髪はすっかり解けて顔の右半分を隠していた。時々しゃくりあげるように呼吸を乱しながら乱暴に目元を拭っている。あんまり見ない方がいいのかな、と思って彼の右隣に腰を下ろした。私の肩の高さに彼の頭がある。散々小さいと思っていた自分よりも、小さくて弱い。震える背に手を伸ばすと温かかった。鼻血も止まって呼吸も落ち着いたところで、彼がタオルと一緒に袋を握りしめていたことに気づいた。
「タオルもらうね。」
「ありがとう、汚してごめんなさい……。」
「そろそろ引退させようと思ってたとこ。お茶でも淹れてくるね、待ってて。」
 再び火をつけた暖炉にかたく絞ったタオルを放り込み、沸かしたてのお茶を手に戻る。
「あの、カチェさん、これ。」
「なに?」
 握りしめていた袋を差し出される。受け取ると、かなりの質量があった。中身は貨幣、それも結構な大金だ。
「どうしたの、これ。」
「父さんに、これやってもらったって、見せたらすっごく怒られて、お金渡して謝ってきなさいって、それで、謝ってこなかったら、明日のお祭り出してくれないって……。ごめんなさい。」
「お金なんていいのに……。」
「もらって! じゃなきゃ僕がまた怒られちゃう……。」
「そっか、じゃあ角はいいよ。」
「ううん、それも抜けたら持ってくる。だから、」
 紅葉色の瞳が艶々と潤って、光がまっすぐに私を捉える。
「またここに来てもいい?」
「……もちろん。」
 頭を撫でようとした手が角に触れて、慌てて手をひっこめた。

■□■□■□■□■□
 収穫祭一日目。街の端でも喧騒は地を轟かし、酒とご馳走に酔ったひとびとの笑い声が耳を突く。王様の肖像画を描く、いわゆるライブペインティングが行われるというのは街一番の広さを誇るカルナバル庭園。王様は代々自身の名を冠した施設を造る。現王が造ったのはカナタ神殿だが、神殿はこれひとつなので滅多に名前では呼ばれない。庭園のそばにはテーブルが列をなし、色とりどりの果実が崩れんばかりに盛られている。立食パーティーさながらの賑わいをかきわけて進むと、背丈の倍ほどはある大きな白壁、そしてそれを取り囲むように組まれたやぐらが姿を現す。近づいていくとより壁が大きく感じる。
「あ。」
 やぐらの天辺に座るカルの姿に気づく。ペンキの缶に筆を突っ込んでくるくる回していた。下でペンキ缶を運んでいるのは彼の父だろうか。長く伸ばして後ろで括っている髪の色が同じだ。背後の缶を取ろうとしたのか、座ったまま彼が振り向く。一瞬目を丸くして、すぐに笑顔になる。こちらに手を振りながら足場に立ち上がって、その拍子に缶に足を引っかけて、簡素なやぐらには満足に掴まれるところもなくて、彼の小さな体は容易に格子をすり抜けて落下する。ぐじゅ、と嫌な音がして、いつの間にか瞑っていた目を開ける。目を開けても、音がした方向に首が回らない。次第に耳元で聞こえる騒ぎ声が大きくなっていって、それに引っ張られるように目が、そちらを向く。
「あ……。」
 人だかりができていた。何も見えなかった。そのことに少し安心していた。
「おいあんた、大丈夫か?」
 肩を叩かれて我に返る。顔を覆ったまま座り込んでいた。ふらつきながらも立ち上がる。
「あ、はい、大丈夫です……。ただの貧血ですから。」
 医者を呼ぼうと言うのを丁重に断って家路を急ぐ。ここにいても私は何も出来ない。何もしない。数歩駆け寄ることだって。なら、邪魔にならないように退いた方が賢明だ。重い足を引きずって来た道を戻る。だんだん笑い声が増えてくる。まだ知らないからだ。私が庭園に足を運ばなければこんなことにはならなかった? じゃあ、初めに断っていたら? 意味のない問いが巡る。
「人並みなんて、もう、無理なの?」
 聴衆が怪訝な顔で私を見る。
「……そうよね。」

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 閉じようとしない目を無理やりに瞑って、布団を頭からかぶる。息がこもって暑かったがこうでもしないと眠れそうになかった。何かしていないと昼間のことを思い出してしまうから、帰ってからはひたすら家事をこなしていた。大掃除も終えてしまってすることがなくなった。体は疲れているはずなのに一向に眠れない。
「……おえあ…………。」
 耳をふさいでいるのに幻聴まで聞こえてきた。手をさらに強く押し当てる。
「ごおっえんええあ……。」
 押し当てる手の強さに反比例して幻聴は大きくなる。なんだか聞いたことがある声のような気がする。
「えんあさ!」
 はっとして布団を蹴り上げる。あの子だ。カルだ。どうして気づかなかったんだろう。開けた扉を閉めるのも忘れて玄関まで駆ける。気づかなかった。雨が降っていた。雨粒が屋根を打つ音を聞きながらいやに進みが遅い足に心中で悪態を吐く。走ってきた勢いでそのまま扉を開けようとノブに手をかけたが、思い直してドアの向こうに声をかける。
「ちょっと下がってて。」
 声が遠くなるのを確認してからそっと扉を押す。
「おええざぁっ。」
 ずぶ濡れで、麻袋を握りしめた彼が立っていた。頭には包帯を巻いているが、ここまでひとりで来たようだし、命に別状はないみたいだ。
「すぐにあったかくするから、入って。」
 麻袋で両手がふさがった彼に扉を押さえてやる。扉を閉めてから彼にタオルを二、三枚渡し、暖炉に枯葉を足して火をつける。奥から毛布と着替えも出してきて、ついでに開けっ放しだった扉を閉める。
「私のでよかったら着替えてて。お茶淹れてくるから。」
 鼻をすすりながら頷くのを見届けて、お茶を淹れに家に戻る。しゃんしゃんと沸騰する水面を見つめながら、どうして来たんだろうと思う。慰謝料の請求に? あり得る。じゃあなんで泣いてるんだろう。怒り……ショックのあまり? 思考をかき消すように蒸気が立ち昇る。茶葉を入れて少し煮立たせ、火を止める。茶こしで受けながら注いで、カップを手に店へ戻る。
「お待たせ。」
「ありがとう、ござい、ます。」
 まだ呼吸が落ち着いていないようで一語ごとにしゃくりあげている。その度に髪から雫が垂れてぶかぶかの服を濡らす。カップを置いてから彼の肩にかかっていたタオルで、包帯をよけながら髪を拭く。
「お姉さん。」
 髪を拭く手を止める。彼が振り返る。
「「ごめんなさい。」」
「「えっ。」」
「「だって、」」
「「どうぞどうぞ。」」
 お茶を一口飲んで彼に先を譲る。
「お姉さんとの約束守れなくてごめんなさい。僕、角……。」
 言い淀んで手元の麻袋を開いてこちらに見せる。バラバラになった角が一対、そこには収まっていた。落下の衝撃で折れてしまったのだろう。オレンジ色の瞳は少し不安げに揺れている。その目を見るのが堪らなくて彼を抱き締める。
「君が無事でよかった。私のせいで落ちたのに、私、何も出来なくてごめんなさい。」
「違う、お姉さんのせいじゃない。僕がよく見てなかったから……。」
「君は何も悪くないよ。」
「違うの、お姉さん。僕もう、角、生えてこないんだって、さっき、お医者さんが……。」
 何を言えばいいのかわからなかった。どうすればいいのかもわからなかった。ただ強く抱き締め直した。
「お姉さん。」
「なあに。」
「くるしいよ。でも、」
 頭を傾けた拍子に耳がすれ違ってくすぐったい。
「このままでいて。」

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 玄関までカオを見送ってから家に戻る。ベッドの半分を占領しているのは図体のわりに幼い寝顔。
「あーんなに泣き虫だったのに。」
 隣に空いたスペースに潜り込んで、冷たい頬に手を添える。と、瞼の間にうっすらと橙色がのぞく。
「ごめん、起こしちゃったね。」
「いや、いいけど。……すごく不本意なこと言ってなかったか、さっき。」
「あーら地獄耳。」
「なに言ってたんだよ。」
 おーほほほと言って誤魔化した。誤魔化せてない気がする。
「カルはいくつになっても可愛いわ。」
「……子供扱いすんな。もう二十四だ。」
 目を眇めたのか、眠気で瞼が下りたのかわからない顔になっている。そうやってむきになるところが、とは言わないでおいた。
「私は三十八よ。」
 知ってる、と呟く。私達の間にある十四年はどう足掻いたって縮まらない。私は老いるし、彼だっていつか死ぬ。お揃いで開けたピアスだって錆びる。引き合わせるのが時間なら別つのだって時間なのだ。
「カチェはいくつになっても綺麗だと思うよ。」
 言葉尻が消え入るのと連動して瞼が下りる。しばらくして規則的な寝息が聞こえてくる。
「思う、ね。」
 否定はさてくれないみたいだ。
「そういうところは格好いいと思うよ。」
 寝るには少し早かったけれど、自然と瞼が下りる。来年の春は、ずっと先延ばしにしていた壁の塗り直しを頼もうかなと思った。

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